加藤茶

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45歳年下の奥さんと
45歳年下の奥さんと

加藤 茶かとう ちゃ1943年3月1日 - )は、日本ドラマー歌手コメディアン俳優であり、ザ・ドリフターズの一員である。本名は加藤 英文(かとう ひでゆき)。身長163cm、体重60kg。血液型はA型(長年AB型としていたが間違いが判明)。愛称は「加ト茶」「カトちゃん」「ヒデ坊」「チャー坊」など。父はギタリストの平八郎(たいら はちろう)。

来歴[編集]

ドリフターズ加入まで[編集]

1943年東京府(現:東京都東京市世田谷区生まれ。5歳の夏の1カ月間だけ、母親の実家・愛媛県新居浜市に住む。父親がを患ったため、母親、妹と共に父親の郷里・福島県福島市に転居し、高校卒業まで福島で育った。実父も元バンドマンである。 学法福島工業高校卒業後、1960年東京の叔母を頼って上京。

上京後、トロンボーン奏者を目指してスターダスターズバンドボーイをやるが、ある日手当ての100円をマネージャーに催促したところ、マネージャーに100円を投げつけられ、頭に来てマネージャーと喧嘩してクビになる。その後、先輩から捨てておいてと頼まれたドラムスティックを使い練習、ドラマーとしてクレージーウエストにメンバー入りし、仲本コージ(現・仲本工事)と出会う。

1962年、碇矢長一(後のいかりや長介)と同時期に、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」にメンバー入りした。

ドリフターズ加入後[編集]

1964年には、ドリフターズの初レギュラー番組『ホイホイミュージックスクール』にて、「加トちゃんぺ」のギャグが受け、一躍人気者になる。これは、付けの糊が剥がれやすかったために、度々2本指で押さえていたものがギャグとして通用したと本人が語っている。

1964年、ドリフターズ内部で発生したクーデター(詳細はドンキーカルテットとの分裂 を参照)の際、碇矢と共にドリフターズに残り、新生ドリフターズを立ち上げる。新生ドリフターズ結成直後、当時所属していた渡辺プロダクションの先輩・ハナ肇に「芸事で飯を食っていこうとするのなら、水に係わりのある芸名にした方がいい。お前は、みんなから「加トちゃん」って呼ばれてるんだから、加藤茶にしなさい」と言われ、加藤茶になった。

1969年より『8時だョ!全員集合』(以下『全員集合』)にて、さまざまな一発芸をヒットさせ、1970年代前半には小学生の間でカリスマ的存在になる。この時代のトレードマークは禿げヅラにビン底メガネにちょびヒゲであり、現在タレントショップなどで売られている彼のキャラクターグッズも、それらを装着した姿をモチーフにしたものが多い。

社会や人間関係の縮図をディフォルメした初期のコントや映画に於いては、お笑い(いつも損をする役、イジメられ役、道化)の中心で、ドリフターズ・メンバーの中で最も持ちネタやギャグが多かった。特に1972年から1973年までの間『全員集合』で毎週たった一度だけ「タブー」の曲に合わせて踊る「ちょっとだけよ」は大ブレイクした。「ちょっとだけよ」のネタは、仕事で出かけた広島市ストリップ劇場で見たストリップショーにヒントを得たという。

この頃、付き人兼居候として志村けん、運転手としてすわしんじ(現・すわ親治)がいた。

新生ドリフターズは、『全員集合』終了までソロ活動を行わせなかったといかりやは語っているが、加藤のみクレージーキャッツ植木等と映画で共演していた[1]

志村の人気がブレイクした後は一手にギャグを受け持つ存在から、志村とのコンビで笑いを生み出す存在へと立ち位置を変化させた。このことが、『全員集合』の後番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』『KATO&KENテレビバスターズ』へつながっていく。

『全員集合』終了後[編集]

『加トケン』終了後は単独でバラエティ番組に出演する傍ら、俳優業にも進出。主演ドラマ『パパと呼ばせて!』では、映画『アパートの鍵貸します』でのジャック・レモンを彷彿させる独身の中年男を好演し、NHK新大型時代劇の『武蔵坊弁慶』では、それまでのイメージを覆す、非常にシリアスな役を演じた。また「加トちゃんBAND」、「こぶ茶バンド」を率い、お笑いだけでなく、本来の持ち芸であるミュージシャンとしての活動も活発化させた。『はぐれ刑事純情派』では鑑識官を演じ、「自分の警官役といえばコントの"自転車で走ってて壁にぶつかるお巡りさん"ばっかりだったのに、格好いい鑑識官とは…」と照れていた。

1987年11月に結婚した18歳年下の妻とは、2003年3月に熟年離婚をしたが、病気療養中のいかりやに心配をかけないようにとの心遣いから、離婚のことはいかりやの死後まで公表しなかった。その後はバラエティ番組においても「家に帰っても誰もいないんだよ」などと、自らの離婚をネタにした自虐的トークを繰り広げることが多くなった。特に、『行列のできる法律相談所』において離婚を決意した日のことを語った時には、あまりの内容の重さに司会の島田紳助から「その続きは『その時歴史が動いた』でやってもらいましょ」と言われるほどだった。

2004年、いかりや長介が死去したことにより、ザ・ドリフターズの最古参メンバーとなった。いかりや長介の葬儀の際には、最古参メンバーということで、年長の高木ブーに代わって弔辞を読んだ。この中で、加藤は「これからオレたち4人で、ドリフターズ、やっていくよ。あんたが残した、財産だからね。(中略)あ、でもそっちからいきなり『全員集合』って言われても、俺たちすぐには行けないからね…」と語りかけた。

2006年10月30日、微熱と体のだるさが1ヵ月以上続く体調不良により緊急入院。同年12月のこぶ茶バンド公演も出演中止が決まった。病名は"Stanford A型大動脈解離"であると本人が2006年12月26日の会見で発表、生還を果たしリハビリ中であることを語った。実際の会見では「Standard A型大動脈解離」と言い間違えている。この際に彼を看病したのは、熟年離婚した元妻であった。記者会見の際にギャグを求められ、「加トちゃんペッ!」をした。なお、この手術の際の検査により、長年AB型だと思っていた血液型が実際にはA型であると判明した。仕事復帰は困難とも言われたが、わずか4ヵ月で『鬼嫁日記 いい湯だな』に出演する形で復帰した(この時語った手術費用は1700万円とのことである。2009年12月7日放送の『人生が変わる1分間の深イイ話』より)。

2008年24時間テレビ 「愛は地球を救う」のチャリティーマラソンランナーとして走る予定だったが「Stanford A型大動脈解離」の影響により断念せざるを得なかった。

2011年、68歳にして、自分の長女(20歳)とほぼ同年代である23歳の一般人女性と再婚したことが報じられた。入籍は6月23日で、45歳の年齢差(『スポーツ報知』2011年8月1日)。さらに、再婚相手の父親の年齢は37歳、母親は44歳(いずれも2011年当時の年齢)であるという(『女性セブン』2011年8月18日号)。入籍当初は新妻がマスコミの前に登場することはなかったが、2012年3月1日(加藤の69歳の誕生日)に埼玉県越谷市の結婚式場「ベルヴィ ギャザホール ザ・シーン」で行われた結婚式と披露宴で、初めて姿を見せた。以来、夫婦でテレビ出演することがある。

年下妻との愛の暮らしのためならお金は惜しまない…というのなら羨ましい話だが、近隣住民によると、事情がちょっと違う。

「最近、奥さんの弟さんが加藤さんのマンションに入りびたっていて、居候状態なんです。奥さんのお友達もひっきりなしに出入りしてます。みんな茶髪で派手な感じの人が多いですね。その人たちは、よくそのまま朝まで加藤さんの自宅で過ごしているみたいです。大きなソファーを買ったのは、そんな自宅に来る奥さんのお友達のためだったんじゃないかしら…」(近隣住人)

妻の友人は一度にだいたい4~5人は出入りしており、中には、わざわざ加藤の自宅のすぐ近くに引っ越してきた人もいるそうだ。加藤は、妻が欲しがるものはどんなに高くても買ってあげたいようで、老骨に鞭打って懸命に働いている。

加藤茶ゲッソリ!?2年超えた45歳差婚に「大丈夫か」の声[編集]

オフはグッタリ

先日都内で行われたPRイベントに登場した加藤茶(70)は、「やつれた感じで、顔色もよくなかった。報道陣から『大丈夫か!?』と心配する声が漏れたほどです」(芸能リポーター)。

見た目は若いといっても、もう古希。2006年には心疾患で10時間に及ぶ大手術を受けている……といろいろあるが、やはりというか「若い嫁サンをもらうと苦労する」(関係者)ともっぱらだ。

2年前に「45歳差婚」でアッと言わせた茶は、2013年9月2日付の自身の公式ブログにこんなことを書いている。

〈家に帰ったらソファーが届いていたよ。黒いソファーからオレンジのソファーに模様替え〉

〈イタリアのミッソーニのソファーだよ〉

10人は座れそうなコーナーソファで、若妻の綾菜さん(25)とイチャイチャしている写真も載せている。

「モノにもよりますが、3ケタ万円でしょうね。ミッソーニのソファは、2人掛けでも70万円ぐらいしますから」(業界関係者)

かわいい妻におねだりされて、といったところか。“大物”の茶にははした金と思ったら、そうでもなさそうなのだ。

9月5日発売の週刊新潮は〈「加藤茶」炎天下のパチンコ営業を3軒ハシゴ〉と報じている。茶は猛暑の7月、徳島県のパチンコ店でトークイベントに撮影会と、〈老骨に鞭打って〉営業に飛び回っていた。パチンコ店の営業は、確認できただけで今年は12店、昨年は28店。茶クラスだと、1件100万~200万円なんだとか。

「綾菜さんはネット上で『六本木のキャバクラで働いていた』『銀座の元ホステス』なんてウワサが流れていますが、確かにおねだり上手ではあります。茶さんから頻繁に高級ブランド品をプレゼントされているし、派手なパーティーを開くのも大好き。彼女のアクセサリー通販ショップにも、茶さんの“協力”が欠かせないようです」(前出の関係者)

茶は最近、オフの日はずっと寝ているそうだ。哀れに思えてきた。

加藤茶ブログ。猛暑日の厚着や大食い健啖家ぶりに知人が疑問(2014年9月)[編集]

いくらお笑いの大御所とはいえ、加藤茶(71)のその姿を見れば「こんな暑い日に?」と思わずにはいられない。

加藤茶のブログに最近アップされていた写真(8月22日)は赤いシャツに紺色の厚手ジャケットを羽織って微笑む様子なのだが、その日の東京は最高気温35度の猛暑日。ブログを見たファンからは「本当にこの日の写真なの?」と訝る声があがった。加藤の知人女性がいう。

「服装だけじゃありません。ここ最近のブログの加藤さんの肌は違和感があります。実際に会うと年相応にシワがあるのに、ブログ写真は厚いメークをしているように見える。実物と全く違うんです」

8月24日には、45歳年下の妻・綾菜さん(26)と頬をピッタリ寄せて〈今日も仲が良いよ〉とツーショットを掲載しているが、たしかにシワひとつなく、若妻との年の差を感じさせないほどだ。“若すぎる加トちゃん”がファンの話題になるのには理由がある。

「以前、加藤は昔の写真を何の説明もなくブログに掲載し、指摘されてから『過去の写真だった』と弁明したことがあった。今回も昔の写真なのではと囁かれている」(芸能関係者)

ブログに紹介される食事にも驚きが。焼き肉、ケーキ、天ぷらなどカロリー満点の料理が頻繁に登場し、しかもかなりのボリュームなのだ。前出の知人は首をかしげる。

「夫妻と一緒に食事をしたときはほとんど外食でしたが、加藤さんはあまり箸をつけていませんでした。数年前に循環器系の大病をしてから食が細くなったようで……。だから加藤さんのブログでの健啖家ぶりが不思議に思えてしまう」

2003年に15年連れ添った前妻と離婚、45歳年下妻との再婚で世間を騒がせたのは3年前。中高年男性は「羨ましい」とため息をついたものだ。しかし結婚後に夫婦ってテレビ出演するたびに話題となったのは、皮肉にも老いた加藤の姿ばかりだった。

「今年6月、NHKの『鶴瓶の家族に乾杯』に出演した加藤さんは青白い顔で弱々しい相槌を打つばかりでした。それから一気にテレビへの露出も減り、一時は入院説も出た。

いま加藤さんのブログは綾菜さんや事務所のマネジャーが手伝って書いているそうですが、だからこそ元気だとアピールしたいのかもしれません。ただ話題はいつも妻のことばかりで、加藤さんの近況が伝わってこないのが心配です」(テレビ局関係者)

人物像[編集]

  • かつてドリフターズを辞めようとしたことがある。いかりやに反旗を翻した小野ヤスシらがドンキーカルテットを結成する際に加藤を誘うが、プロダクションといかりやの慰留の説得によって残留した。
    • 加藤がこの時のことを語る際、いかりやから「お前、どうするんだ!!」と凄まれたため、あまりの怖さに「残ります!」としか言えなかった、と面白おかしく紹介するのは、あまりにも有名である。
    • ただし、いかりやの著書『だめだこりゃ』によれば、この頃はプロダクションには所属しておらず、前リーダーの桜井輝夫がオーナーとして関わっており、前出の「お前、どうするんだ?」と説得したのは桜井とされている(いかりやは加藤を直接は説得していない、また桜井も普通に「どうするんだ?」と尋ねたにすぎない)。また、ドンキーカルテット側からも「加藤はドリフターズに残った方がいい」と進言されたとされている。
  • 荒井注のドリフターズ脱退の際、加藤も一緒に脱退しようとしたことがある。だが荒井の脱退発表にメンバーのみならず世間も大騒ぎになってしまい、結局脱退を言い出せなかった、としており、加藤本人も笑い話としてテレビでたびたびこの話を披露する。
  • 車好きで自他ともに認めるスピード狂。そのためトラブルも少なくない。1970年には交通事故を起こし重傷を負い1967年から白組応援団として3年連続で出演していたNHK紅白歌合戦への出演が一時ストップ、1か月の謹慎処分を受けている。また1987年には首都高速で85km/hオーバーの速度違反、この時は報道発表が放送日の土曜日だったため、番組冒頭、加藤本人が事情説明と謝罪を行っている。速度違反ではこのほかにも数回検挙歴がある。『ドリフ大爆笑』の「もしもシリーズ」のコントではこのことがネタにされたことがあった。車好きが高じて『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』のカーアクションシーンでの運転(実際のアクション部分はスタントか代用人形だった)はほとんど加藤が行っている。ただしこれは志村が運転免許を持っていないという事も理由の1つである。
  • 少年時代には平泳ぎが得意であった。中学生の時の全校水泳大会の自由形では、他の選手が全員クロールの中、加藤だけが平泳ぎだったにもかかわらず、加藤が1着だったという(『6年の学習』1979年9月号より)。
  • ドリフターズメンバー全員の共通の趣味であったクレー射撃は加藤が一番巧く、公式大会での優勝記録も多数残しており、本人によると「協会からオリンピック代表候補の打診もあったが、ドリフターズが一番忙しい時期だったので、事務所に行かせてもらえなかった」というほどの腕前であった。なおクレー射撃の銃所持免許は、前出の度重なる交通違反による前歴から取消処分を受けている。
  • 「『全員集合』全盛期には、クラブの遊興費だけで、「(一晩で)3億円は使っていた」と告白したことがある。ただし、普段はリハーサルや本番やほかの仕事で忙しく、これはドリフターズの夏休み期間のみの話である。「そんなお金、ぜ〜んぶなくなっちゃったね」と、あっさり言ってのけた。その発言の場に居合わせたウッチャンナンチャンをはじめ、ゲストたちは驚きを隠せなかった。
  • ギャンブルは穴狙いで、『木梨サイクル』にて見事的中させる様子が放映された。大量の札束をポーカーフェイスで受け取る加藤に対し、木梨憲武が「加藤さん…」と言ってその後絶句したが、加藤は「え、なに?」と一切興奮した様子を見せなかった。
    • 一時は仲本・高木と3人で競走馬を所有していた(=馬主だった)。加藤によると「仲本に誘われて初めて大井に行って馬券を買ったところ、いきなり1万5千円(150倍)の馬券が当たり、しかもそれを5千円も買っていたので、勢いに乗ってその金で馬を買っちゃった」という。購入後1年ほど経った頃、仲本の「そろそろ売った方がいい」との意見でその馬を売却するが、それまでの間に7勝を挙げ「買った額以上には稼いでくれた」という。
    • それ以来競馬にどっぷりはまり、日本国内だけでなく海外でも競馬場に足を運んでいる。過去にはロサンゼルスに行った際に近隣の競馬場(名前は忘れたとのこと)に行き「英語がわからないので見た目だけで馬を選んで、12レース中7レース馬券を的中させた」こともあるという。
    • 加藤はそのほかにも競艇のファンである。ボートレース振興会のキャンペーンの冊子にも登場したことがある。また競艇の大レースのプレゼンターを行うこともある。
  • プロ野球読売ジャイアンツファンである。
  • 離婚後に犬(トイ・プードル)を飼い始め、犬用の服を数十着も用意しているほど溺愛している。
  • 本人が『徹子の部屋』で語ったところによると、離婚後は刹那的な生活をしていたと語り、朝からステーキを食べるなどして健康に気を遣わなかったという。その結果が大動脈解離の遠因であった事を認めている。
  • 前妻との間に子供が3人いる。
  • 「来歴」の項目にある通り、2011年6月に45歳年下の女性と再婚した。

タレントとしての評価[編集]

  • いかりやが著書『だめだこりゃ』で述べたところによると「ネタを積極的に出すタイプではなかったが、笑いを誘う間が良かった。ミュージシャンとしての才能、特にリズム感がお笑いでも生きている」。
  • ドラマーとしての評価も高く、コメディアンとしての認知が高かった頃の『全員集合』でもその実力の一端を見せているほか(西城秀樹とのドラムバトルは、たびたび『全員集合』の回顧企画でも取り上げられている)、1974年の映画『ザ・ドリフターズの極楽はどこだ!!』でも加藤の長尺ドラム・ソロが披露されている。その経験の延長から、クラシックオーケストラを用いたコントではマリンバティンパニー邦楽盆踊りを題材にしたコントでは和太鼓等、打楽器の演奏もたびたび披露している。他にも、TV番組で大リーガーのランディ・ジョンソンとのドラムバトルを披露している。
  • 最近では、それぞれの県や観光地ごとに自身がキャラクターモデルとなった「御当地加トちゃん」が発売されている。「御当地加トちゃん」の第1号は、2000年静岡県限定で発売された「茶っきり加トちゃん」である。

加藤茶のギャグ[編集]

  • 「いかりやに、おこられた」
  • 「えぇど、えぇど、おい!」
  • 「いかりやの怒りは爆発だ! 志村を惜しむら! 仲本の中をもとう! 荒井は荒い!」
  • 「痛いの痛いの飛んでけー」
  • 「1、2、3、4、やったぜ加トちゃん! ぐるりと回ってウンコチンチン!」
  • 「今加ト思いました。シ加トするなー」
  • 「おーおー珍し珍し」
  • 「俺たち○○するかなあ?」「分かりません。」「ピッカピッカのー1年生、ビシッ!」(志村けんとのペア)
  • 「加トちゃんでございますよー」
    • このギャグから芸名がハナ肇によって「加藤茶」と付けられた。
  • 「加トちゃんペッ!」
    • 旧ドリフ時代から使用されている、唯一のギャグである。
  • 「来た、来た、来た、来た、来た、日刊アルバイトニュース!」「来た、来た、来た、来た、来た、北の湖ー」
  • 「5秒前!(5)、 4、3、2、1!」「でーん(まーん)」(変な顔をする、いかりや長介とのペア)
    • 志村けん仲本工事が競馬ノミ行為問題で謹慎中のいわゆる“三人ドリフ”の時期に、苦し紛れから生み出されたギャグ。
  • 「タバコ、する?」
  • 「ちょっとだけよ、あんたも好きねえー」
    • ラテンのスタンダード・ナンバー「タブー」を伴奏にストリップを真似る。このギャグが人気を博したため「タブー」がヒットすることにもなった。この台詞は、広島のストリップ劇場にいたストリッパーの台詞をそのまま使ったものという。
  • 「どうもすんずれい(失礼)しましたー」
    • お巡りさんに扮し『女のみち』を歌い自転車で登場する際の挨拶。
  • 「仲本(加藤)さん、○○されましたなあ」「いやー、参った参った」(仲本工事とのペア)
    • 初期ではその後に荒井注が「私も○○されましたなあ。いやー、参った参った」と言おうとして、いかりやに突っ込まれるパターンがあった。
  • 「バカみたい」
  • 「ひっきしっ!(くしゃみ)」
    • 加藤の代表的ギャグのひとつ。南原清隆にワールドクラスだと言われた。
    • くしゃみの後に、上から降って来る金盥等に直撃されるのがお約束となっている。
  • 「ブエー(吐き真似)」
  • 「ポリポリポリ! マッハ! 痒いー!」
  • 「まぁこのぉー」
  • 歌舞伎役者
  • 牛乳早飲み
  • ヒゲダンス

出演[編集]

ここではソロ活動のみ記述する。ザ・ドリフターズとしての出演作品はザ・ドリフターズを参照。

テレビ[編集]

ほか。

テレビドラマ[編集]

映画[編集]

舞台[編集]

ラジオ[編集]

CM[編集]

ゲーム[編集]

ディスコグラフィ[編集]

  • はじめての僕デス(志村けん東村山音頭との両A面)
  • RAP MIYO-CHAN(Cha!K.A.T.O. with BRAND NEW MONKEYS名義)
    • 「ミヨちゃん」をラップ調にアレンジした曲。「ドリフ大爆笑」の歌コーナーでも披露され、オリコンシングルチャートで、8週ランクイン、最高44位となった。
  • 加トちゃんのスキャットマン
  • 加トちゃんのミニアルバム
    • 加トちゃんのスキャットマン、RAP MIYO-CHANを収録。
  • ズンドコ伝説
    • ドリフターズのメドレーで、同名アルバムでは、エンディングのセリフが大人向けになっている「ADULT VERSION」で収録され、その後に出たドリフターズ・ベストアルバム「ドリフだよ!全員集合(青盤)」にもこのバージョンで収録された。しかし、「ザ・ドリフターズベストコレクション」には、シングル・ヴァージョンとは記載がない物のエンディングのセリフからシングルバージョンで収録されていると思われる。
  • 花は咲く

新聞掲載[編集]

関連人物・項目[編集]

脚注・出典[編集]

  1. 末期の東宝クレージー映画では、植木と加藤のコンビ主演作も複数ある。なお、植木との初共演となった映画『日本一のゴマすり男』(1965年・東宝)では、本名の”加藤英文”でクレジットされている。

外部リンク[編集]

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